日経MJに掲載していただきました。1
12/4(月)の日経MJに掲載していただきました。マーケティングコンサルタントの竹内謙礼先生に取材頂きました。
当日、記事を読んで、自分たちのやってきたことがこんな風に表現されて紹介されていることに、少しウルっときました。
内容のことをこちらで少し詳しく紹介していきたいと思います。
まず1番最初はロゴについてです。
僕がタマヤパンを継ぎ3代目になったのは、平成24年(2012年)の4月もことです。
当時はまだ現在のロゴではなく、会社名の米麦館タマヤのロゴがメインのものでした。当時売場に行くと、同じ会社なのにデザインのイメージが統一されていない状況でした。
そこから1年半かけてロゴを変更しました。すごく大きな決断と言って頂いたこともありますが、現在のタマヤパンは、おじいちゃんが戦後すぐに始めた時の名前です。
馴染みのある方には、タマヤさんと呼ばれていたこともあって、社名ではなく、屋号として、もう一度、タマヤパンと名前を戻して、原点を忘れずにやっていこうという意識の表れでもありました。この話には、僕の10年ほど前の出来事が関係しています。
僕は生まれも育ちも岸和田です。岸和田というと、そう“だんじり”です。小さな頃からずっとだんじりをやっていました。というより、それしかやってこなかったと言った方がいいかもしれません(笑)。
タマヤパンの創業の地である、宮本町で生まれ育ち、祭りの寄り合いの度に、町内の居酒屋によく行っていました。その中のある1軒の居酒屋さんのおかみさんに言われたことが、今でも頭から離れません。それがきっかけです。
もちろん小さな町なので、タマヤの息子である事は知っていますから、名前ではなく、タマヤさんと呼ばれていました。
いつものように、そこで友人と飲んでいた時のこと、
おかみさんが、
『タマヤさんのパン今はどこで買えるん?近所どっかない?』と聞かれて、
『あ、あそこに売ってますよ~』と
2kmほど離れたところにあるショッピングセンターにある事を伝えると、
『あ~あそこまではちょっと遠いわ~私、足が悪くなってから、自転車も乗らんようになったから行きにくいなぁ』と
『昔はすぐそこにあったから、いっつもいってたわ~また食べたいな~』と言いました。
その時に、すごく申し訳ない気持ちと、自分自身の力不足に悔しい思いをしました。
昔、おじいちゃんが始めた当初は、ホントに地域の方に支えられて続けてこられました。そして、日本全体が経済成長期に入りタマヤもその波に乗って、どんどん店舗を増やしていきました。創業の地、宮本町にも商店街の中に店を構えたこともありました。
おそらく、そこでいつも買って頂いていたようでした。
しかし、激しい競争の中、また地方の商店街ということもあり、郊外に大きなショッピングセンターが乱立し、客数は落ち、やがて閉店になりました。決して商店街だからという事では無く、自分たちの力不足だと思います。今でも何かやり方があったんではないかとたまに思います。
ただ、自分の中では同じ岸和田でそう遠くないところに店舗があったので、そこでまた買って頂ければという想いもありました。しかし、実際はその距離の長さ以上に遠かったということに気づかされました。情けなかったです。
その時に『今すぐには難しいけど、また創業の地に店を出すわ~!』と約束しました。
そんな出来事の中で、
やはり昔から支えてくれている皆さんに分かりやすいように、
そして、親しみを持って今でも読んでもらえていること、
それと何より、3代目としてうちの原点を忘れないこと、
そういった想いで、『タマヤパン』という名称に戻しました。
続く